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カオス性と芸術と社会

[2025.06.16]

カオス的情報過多によるサイケデリックな世界観は行きすぎると人々に受け入れられづらい。

社会の混乱の一因として情報過多による個人の脳内カオス化とそれによるストレス発散欲求の高まりがある。

人の脳内はオーバーロードすると、苛立ち、疲労がたまる。

しかし、現代のネットの中の情報過多に対して、都会の簡素化は対比的である。
現実の世界はまとまりすぎて刺激を与えない。その反作用として、ネット、裏の世界でカオス性、暴力性、猥雑さが高まる。

自然はカオス的で情報過多の世界であるとともに、人間の作るカオスが存在しない意味でまとまってもいる。

芸術はその人間のカオスとオーダーの狭間・バランスを求める欲求を満たす役割があるかのようだ。基本的に大衆受けする芸術はわかりやすい。一方である程度のカオスさも好まれることがある。

人々の欲求不満は現実の過度な秩序(過度な常識)により、人間の持つ自然的な、伸びやかな自由さを抑圧していることにある。それは、ネットによって解消されることもあるし、そうでもないこともある。基本的にはその原始的欲求は社会・自然の中でしか解消されない。

・chaoticな社会が優れているわけではないが、個人によって適した社会の、chaos/order比の適正があるに違いない。日本が合っている人もいればそうでない人もいるように。オーダー性の高さは外国人にとっては、魅力的でその清潔さやマナーが評価される。しかし、人間として生きる上で、そのorder性の追求だけが集団の目的になっていいのだろうか。そこには深い退屈、虚無感が漂うこともある。
つまり人の目を気にして、生きている人々で溢れかえり閉塞感で充満している。相互監視、マナーの強要の過剰性は一種の暴力でもある。その危険性は人間の内部に他者の目が強く内在化され精神を蝕み、精神病に陥る恐れがあるということだ。
内在化されるとは、思考内の窮屈さ、をうむということで、思考の内部にまで他者の監視が常に働いて自分の自由な思考ができなくなることだ。


・現代のメディアは他者の自慢と自己主張でオーバーロードしている。
だから、それに晒され続けた若者の精神はコンプレックスに侵される。
メディアの反知性さの過剰さ、性と食に満たされた肥満な病質が現代人の蓄積される不満につながる。だから、芸能人は定期的にゴシップで叩き落とされ、その国民の歪んだ欲求を満たす。

・集団でのそのカオスへの限界を迎えた時、暴力、戦争や争いが起きると考えられる。カオス性が高まり、交渉の余地がなくなり暴力に訴えるというわけだ。
これは、個人の脳内カオス性を助長するネットの乱用も一因だろう。
だから、平和を追求するならどう、脳内カオス性を低め、社会のc/o 比のバランスを考えるかということになるだろう。

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